か ね ひ ろ 水 産

[インタビュー:2013年3月]
村上 覚政(あきのり)さん

なぜ漁師になろうと思ったのですか?――――――――――――――――――

父はエビ船に乗って赤道直下を回っていましたし。
ただ、漁師になるつもりは特になく、大学で機械工学を学び、仙台でSEとして就職をしました。
給料が安く、将来に不安を感じたので1年で辞め、アルバイト生活をしていたところ、父に「知人の日系人がチリで起業したから、俺の代わりに仕事を手伝いに行ってくれないか」と言われ、1年ほどチリで輸出の仕事を手伝ってきました。
その後、日本に帰って来たんですが、ちょうど友だちが仙台で店をやるというので一緒にやることになって。
まぁ、楽しくはやったんですが、結局はダメになって、借金を作ってしまったというわけです。
金を返すために、契約社員としてタイヤ工場で働きました。
広田に戻ったのは30歳の時です。
父は、跡継ぎのいない叔父と一緒にカキ養殖をしていました。
今までは、雇用されて給料をもらうという働き方をしていたんですが、カキ養殖が悪い時期でさえ、「自分の力でなんとかできる」という父の言葉にしびれ、広田のカキを復活させようと思ったのです。
漁師をしていて楽しいことや辛いことはどんな時に感じますか?――――――

朝の3時半にカキの水揚げを初め、カキ剥きや出荷などの作業が終わるのが夜の6時半。
カキ剥きなどの作業に手伝いを8人使い、それらの人にも手間賃を払わなくてはいけない。
寒い、眠い、なのにお金にならないでは辛いけど、やり方次第だと思っているので、今は辛さをあまり感じません。

漁師はどうしても「ガサ(量)」にこだわります。
同じ1キロでも質にこだわった1キロと、ただ量がある1キロには違いが出ます。
俺はそこにこだわり、量より質で値段を上げていきたい。
いいものを作って、築地への出荷を増やしていきたい。
築地はモノに対してきちんとした評価を下してくれるし、販売ルートが大きい。
そこで評価されることが一番うれしい。
東日本大震災当時のことをお聞かせください―――――――――――――――

陸の上の瓦礫が片付くのに5年はかかるんじゃないかと思いました。
じゃあ、海まで瓦礫が片付くのはいつ?
どうやって生きていくか・・・内陸に出稼ぎに行かなくてはいけないのではないかという気持ちにもなりました。
復旧なんて半信半疑です。
最初の2ヶ月は消防団として活動をしていたんですが、松島のカキ種が助かったという噂を聞き、みんなで種を買いに行きました。
養殖用の資材もほとんど入ってこない状態だったので、普通は春先に行う仕込みを8月から9月にかけて行いました。
これではいいカキが獲れないことは分かっていたけど、「とにかく何かやるべ」とみんなの思いが一致したのです。
震災から2年。今季からカキの出荷が始まりました。
正直なところ、モノは悪い。
赤字になっても出荷できるということが嬉しいです。
将来への取り組み―――――――――――――――――――――――――――

より良い漁業にするため、そして、今投資しているものを取り返すための取り組みです。
自分が養殖したカキは漁協を通してしか販売することができないのですが、自分でも自信を持って販売したいと考えています。
広田のカキは築地で最高額が付いたことがあるほど評価されていました。
今は各産地のカキを食べ比べているのですが、美味しいカキはどうやって作られると思います?
カキは栄養が多いと良く育ちます。
量を作ろうと密植させると、形が悪く、栄養不足になっていいカキができません。
広田の外海で養殖するカキは海の栄養分と黒潮の流れで、海本来のミネラルが凝縮されていると考えています。
今年は雑物を駆除するための湯温処理も整備するので、この冬からは自信を持って海のミネラルが凝縮された美味しいカキを出荷できます。
メッセージ――――――――――――――――――――――――――――――

自信を持って提供できる本物の広田のカキを復活させるので、もう少し待っていてください。
ピ イ ロ タ フ ァ ミ リ ー 倶 楽 部
ピイロタファミリー倶楽部では、
通常の海産物販売ではなく年間を通して、
数回にわけて漁師のコダワリや生育状況などの情報発信
をさせて頂きます。


※本商品の発送予定は2016年冬となっております。